昭和43年6月11日 朝の御理解
立教神伝の一番最後のところに、「あいよかけよで立ち行き」とありますね。あいよかけよで立ち行きというのは、どういうような意味を持っておるものかと言う事を一段とこう分からせてもらわなければならないのじゃないか。御理解第80節にこうあります。「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたのではない。皆神のおかげで生まれてきたので、早く生まれてきたものほど世の為に働きをしておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若いものでも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。信心するものはよう心掛けておるがよい」と。これはね、年より(?)という意味じゃないと思うですね。一番初めにいわば開口一番に「年寄りを大切にせよ」とこう言っておられますから、はあー年より、いわゆる、敬老ですよね。年寄りを大事にせよと言う事を言う為にこの、80節はあるのではない。ね。だから、年よりは人間の考えで早く生まれたのではないし、それだけお役に立っておる道理であるからと仰るから、年よりでもそのお役に立っていない、ただ、この世に早く生まれてきたというだけで、反対にお役に立っていないという人もある。いうならば、世の(?)というような言葉を申しますですね。(ごくつぶし?)的な存在であったりしたんではですね、敬われない。最後のところに若いものでもお役に立つ人は人が敬うてくれるようになるとこういわれてある。
そこで私はあの、あいよかけよで立ち行くと言う事、。ね。これは私はね、いわば親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行くと。氏子あっての神神あっての氏子と。というそこんところがですね、その、ここは、敬いおうていくと言う事。ね。それを、信仰的にいうなら拝みおうていくと言う事。ね。どこを拝むかというと、ね、例えば不都合不行き届きが重なれば敬うてくれぬようになると仰るようにその、不都合不行き届きばっかりあっておるものを、拝むわけにはいかんでしょう。
ね。親に喜んでもらう。親孝行と。親が子供を敬うと。親が子供のために全てを犠牲にして子供の成長というか、子供の幸せを願う。ね。そういう、親の尊い姿に子がまた親を拝む。ね。親父苦笑という、家の親は他所の親であって、他所の親のごと子供から敬われる親じゃない。ね。子供をしぼった上にもしぼろうとする。今ごろはそんなことはないけれども、自分の子供を(?)売ってから親が楽をしようとするような親すらあります。いよいよこれは親父苦笑ですよね。親は親でもですね、それでは子供から尊敬されないです。信心するものはよう心かけておるがよいと仰っておられるのである。どこまでもその御理解であってですね、これは年よりを大切にせよというのはいわば、年より(?)という意味ではないと私はここでは思うですよね。信心する者はよう心がけておるがよいという一つの心がけとして、そう言っておられる。いわばお役にそれだけ立っておられるから、年よりを敬うのだと。そんな、お役にたっていない。むしろ害になっておるという年よりがね大事にされるはずがない。
まあここんところは信心、神心といったようなねもの、そのようなところからの説き方をすると、それが例えば極悪人であろうが、ね、本当にどういうそれが年寄りであろうが、親であろうがね、かわいいと思う心が神心といったような一面もありますね。信心には。けれどもここではあいよかけよで立ち行くというその、場からですね考えた場合ですねでないとあいよかけよで立ち行くということになってくる為にはね、立ち行くということはねお役に立ちあうということ。お役に立ちおうていくと言う事。親は子のため、子は親の為に。ね。これは神様と氏子の場合でも同じ事。お店をさせてもらうものは、例えば主人と従業員でもよいし、ね、お客さんと店主と言うてもよい。ね。そこのところをですね、お役にたちあう。不都合不行き届きが重なれば敬うてくれぬようになる。ね。不都合不行き届きという、これではね、不都合不行き届きがあるようになったんでは、敬う、敬い合うと言う事は出来ない。そこで信心するものは何事にも信心になれよと言う事になるわけです。ね。信心するものはよく心がけておるがよい。
それは年よりを大事にする事を心にかけておけというのじゃここでは私はないと思うです。ね。その証拠に半分には若いものでもお役に立てば人が敬うてくれると言うておられる。年より(?)じゃない。問題はそのお役に立つと言う事は、お役に立ちおうていくと言う事。そこで、結局どうなるかというとです、結局実意丁寧の限りを尽くしおうていくということになるようですね。しかも信心で。実意丁寧、いわゆる神信心。ね。お互いが、ね、お役に立ち会う為にどうしても、お互いに犠牲に合い合わなければならない。お互いが、銘々をむなしゅうしおうていかなければならない。
そこに、尊ばれる元があるのです、ね。敬いおうていくと言う事は、拝みおうていくと言う事。拝むと言う事はどうでもそこに尊いものを、そこに発見するから敬うのである。拝むのである。その尊いというのがどこかというと、ね、お互いがこの犠牲になり合うていくという姿なのだ。自分をむなしゅうしおうていくという姿。ね。そこに初めてあいよかけよで立ち行くという事になるのである。子供はむごう言うてからつかわにゃん。ね。いわゆる(?)だけでつかわにゃん。というのではなくてですね、お互いがそこに、年より若い者、若い物には若い者のいうなら場がある。年寄りには年寄りの場がある。お互い邪魔になりあわないように、勤める。お邪魔にならないようにだけではなくて、お互いにお役に立つように、お役たちおうていく。そこに初めて拝み合いの生活というのが成り立つ。ね。お前にばっかり腹かいて済まんな。もう、例えば親が子供にそういう、感謝の念をいつも持っておる。ね。子供が、親の子供の為に一心に思う親を自ら犠牲にして行く姿に子供が感謝する。尊びおうていく。ここのところがですね、私は信心でなされていかなければならない。
お役に立っていけば若いものでも人が、なんとはなしに敬うてくれるようになる。
御神訓に「わが心の角でわが身を打つ事」という御教えがありますよね。「わが心の角でわが身を打つ事」と。これは決してわが身だけではありません。わが心の角は人も怪我する。ね。いつもなんとはなしに、人に怪我ばっかりさせておるような人がね、自分自身もやはり傷ついておるのでございますがね、これでは今日私が言う、反対のことばっかりにしかならない。もうあの人のふうをみておったら見ておるだけでももやもやする。
ね。いわゆるその、お邪魔になっておるわけなんです。わが心、いかに自分の心が有り難いもったいない、ね、これは年よりなら年よりだけにしか出来ない。年よりにお役に立てってさあ、雑巾がけしなさい、さあ、ご飯を炊きなさいというて出来る事ではないですけれどもね、年よりには年よりの場、本当に黙って祈れれるというか、いつも若い者を邪魔にならないようないわゆる、和らぎ喜ぶ心。円満な心。ね。そういうような私は年よりなら必ず若いものに大事にされる。ね。わが心の角でわが身を打つのではなく、わが心の門で人までも傷つける。これではお役に立ちおうていくという反対。信心して和賀心を願わせてもらい、和らぎ喜ぶ心をいよいよ高めさせてもろうて、そして、それを人のために、自他ともにですね、助かっていく祈りというかね、そういう親切をいつも心の中にもっておく。そういう、行き方にならせて頂いたら尊ばれる。人に大事にさせれる。ね。
年よりだから、若い者から大事にされなんはずのごと思うておる年よりがある。例えばなら、乗り物で席を譲るのはもう、譲ってもらうのは当たり前のように思うておる年寄りがある。こういう年より損ないがある。そういうのはいくら先に生まれてきておろうが私は大事にされないと思う。ね、若い者も年寄りじゃからと思うて席を譲る。それを当然のことのようにしてから思う。それを、本当の感謝の心もなしに受けるというのではね、おかげを受けられません。今は若い者は年寄りを大事にしない。大事にされんはずである。年をとったからというて皆が大事にするはずがない。大事にされるもとをしっかりつくっておかなければ。それには本当に、世のため社会のために又は家のために、いうなら子供のためにね、それこそ、自分というものをむなしくして、自分と言うものを犠牲にして、自分と言うものをいわば本気で犠牲にしてきておるというそこにですね、若い者から子供から敬われる。尊ばれるわけである。
ね。子供を「幼少の頃を忘れて親に不幸の事」と仰るが、親が子供を養育すると言う事は容易ならない事である。ね。けれどもそくらいなら事をね子供に恩きせるような事では私はつまらんと思う。そんくらいのことは親としては当たり前だ。子供がそういう風な事を言うんです。ね。自分の子供に自分が育てるのは当たり前。それで、お前が子供の時にはどがしこ手がいっとるか。こりゃやっぱ子供がいるのはほんなっこ。当たり前。ね。それだけではいかん。その子供のために本当に自分の身を削っての私は犠牲に子供のためになっておって始めて私は子供がそれを感じとる事ができる。
この親のためにという事にもなってくるのである。ね。当たり前のことを例えば恩にきせるような年よりはやっぱ大事にされません。ね。(?)じゃないですけれども、結局本当に姥捨て山にでも、捨てられるような、たような年寄りがたくさんあるのは、やっぱ年寄りは年寄りとして考えなければならない。とこう思うのである。
ね。若い者にけんえんされる。ね。それで私達がです、本当に若い間にね、本当にお役に立つ信心をさせて頂いておかなければならんか。それはまあ、いうならば実意丁寧神信心をしておかなければならんかと。なら、実意丁寧神信心とはいよいよ自分を空しくしていく生活というか、信心生活に楽しみ有り難いものを分からせてもらえる信心。ね。自分というものをいつも、犠牲にしていく、自分を空しくしていくこと、それがお役に立つ事。ね。あいよかけよで立ち行くというのはそういう自分をなくしていく、自分を空しくしていきあうという事が、立ち行く事である。
これがあいよかけよで立ち行く事である。あいよかけよで立ち行くといくという事は尊敬しあう、敬いおうていくという事である。立ち行くという事は。それをもう一つ言うならば拝み合うていくという事である。その、拝み合うていかなければならないその、相手がね、不都合不行き届きがあって拝まれるはずがない。
お互い、信心は家内に不和の無きが元と。これは、おかげの大本といわれる。ね。本当のおかげを頂く為には信心は家内に不和がなきが元とこういわれてある。その元というのが家庭の中が、全て親が子を子が親を拝み合うていく。夫が妻を妻が夫を、拝み合うていく。ね。その、拝み合うていくという事はお互いが犠牲になり合うていく。ね。お互いが空しくなり合うていく。そこに相互の拝みという、尊敬し合いというものがある。ね。ですから、ね、この拝み合いという事はね、片一方だけでは成り立たない。ね。そこに勢を揃えた信心という事がある。始めて分かった。始めて拝み合うという事が分かった。ね。 ですから、そこにただ今からでもよい自分というものを犠牲にして行こうとする、願い。その、自分を空しくしていくという姿こそが尊いのである。そこが拝まなければおられんのである。自分の主張ばかりをする。自分のわがままばっかりの事をする。自分が勝手なことばかりをする。これで、どんなに拝み合うていったって一家中がなら信心をしておったって、これでは、いわゆる、家内が不和の無きが元と仰るいわゆる、信心でいう和の家庭生活とはいえない。
ね。信心するものはよう心掛けておくがよい。最後に信心するものはよう心がけておくがよい。私はここの御理解80節は年寄りを大切にせよと。一番にいうておられるからね、はあー、教祖の神様はもう年寄りを大事にせないかん大事にせないかんと、いわゆる、年寄り、敬老の精神でね、または年寄り礼賛をこう、理解しておられるように思うておった。今までは。ところがこれは、年寄りを大切にせろという事を言いたいのではない。教祖の神様は。お役に立つようになれというのがこの御理解の中心なんだ。ね。いわゆる、世の為にそれだけ長くお役に立ってきておるどおりであるからと仰るから、役にたってきておる、年寄りがあるかもしれん。かえって反対にごくつぶし的な年寄りがおるかもしれん。だからこれはそういう風に今日の御理解はここんところを、ここんところを一つ分からせてもらう。だからここには若い者も大事にされると言う事が言うてある。若い者でもお役に立つと人から尊ばれるとこういうておられる。
だから年寄りでもお役に立たないものは、ね、だから、お役に立ってこなかったものは尊ばれないと。そこで、私共がね、本当に私と言う一生涯、私はなら、50なんという間にですね、段々年をとってきよるが、果たしてどれだけ子供の為に自分が犠牲になってきただろうか。どれだけ世界のお役に立ってきただろうかと。考えてきてみると、お役にも立ってきただろうけれども、世の中の邪魔になってきた。子供達の邪魔になってきた事のほうがもし、地球にかけてみて多いようなら、感じがするでしょう。そんなら、そこを一つ本当に詫びて詫びぬかないけん。本当ですよ、親のために苦労する子供があるのですから、子供の時から。もう親には散々苦労してきたと言う事なんですね。
ですから例えそういう年寄りでもですね、本当に信心が分からせて頂いた。これからは生い先短い後何年お生かしのおかげを頂くか分からんけれども、この何年間を天地のご恩徳を分からせてもろうて、天地のご恩徳に対して神恩報謝の生活をさせてもらい、実意丁寧の神信心をいよいよ身に付けさせて頂いてね、さあそれから、今から、一つ働いてからというようなことは出来ないのであるから、心で為される、ね、そこんところを恩着せがましいと、恩着せがましいというとですね、こんなことがあった昨日。ある人が、熱心な方がある人をお導きした。大変難儀な人間関係の問題である。もう本当に、神様の働きは(?)及ばんねというて、言うぐらいにおかげを頂いた。ね。ところがおかげを頂いたばってん、向こうはそのおかげを頂いたと思うておるけれども、まあその、そげん導いた人のごと有り難いとは思うていないわけ。それで、もうこげな事じゃけんお導き出来んち。 相手がもう少し有り難がってくれたら、お導きがいがあったのですけれども、あんまり有りがたがらんじゃけん、こげな事じゃけん、お導きが出来ん。神様に対してご無礼になる。神様はおかげをやったかというと、(?)自分がお導きしよると思いよる。ね。ですからあの、そんな場合があるですよ。ね。私は誰の為に信心しよる、あんたの為に信心しよるとばいち言うてから、言うような事ではね今日の御理解に基かないわけなんですよ。 ね。それこそ、誰が為、結局自分をいわば犠牲にしての生き方なのですから、そげな事を出す事いらんでしょう。その人のためになお自分が犠牲になって、お詫びをしていったり、お礼をしていったりしたらよいのですよ。神様が分からせてくださる時に分からせて下さる。自分がわからせる。どうも私共はどこの隅にか恩に着せる思いがあるのですよね。親が子供に恩をきせる。ね。恩にきせられるくらいいやなことはない。それが、黙って当たり前のこととして、私の親のことを言うとおかしいですけれども、母なんかあの遅配欠配の食物が無い時なんか、私が福岡の方におってから何時帰ってくるやら分からん。
大城の電車、あの時分はバス代がなかったから、大城の電車で帰ってきよった。大城から歩いてきよった。おそらく11時頃まで、(?)電車がありよった。家の母は絶対、シュウの電車がついてから椛目につく時間をちゃんと量っておる。教会によっていってからこっちくる。だから、ひょっとして帰ってくるならば、椛目に何時ごろつくかって、それまでは、夕食をとらなかった。
それが、後で分かったのです。ね。あの、お雑炊のようなものがどんぶりにいっぱいずつ(?)じゃった。ね。それをいつもあの、水屋の中から出してきてから、何時帰ったっちゃそげんあるとですよ。ご飯が。だからこげん遅配欠配の時にどうしてじゃろうかと思いよった。ね。そしたら、ある時妹からばあちゃんがねあの、兄さんがいつ帰ってくるか分からんからと言うてから、(?)からしかご飯を頂かなかったと。ね。もう本当にそういう陰の親のもうそういう思いをね、いわゆる自分をもう、だから私が帰ってきていただきよる時には親はたべよらじゃったという事になるのです。
ね。この親にどうして不幸が出来ますでしょうか。ね。親がいわば私のために犠牲になりきってくれておる。ね。こういう意味でのことなら二事三事じゃないです。私の方は。
ね。ですからそこにですね、結局拝まなければおられない尊敬しなければおられない、大事にされなければならないと言う事になってくるのです。今日は皆さんあの、何時も言う、信心という、神心というそれをみよかなければなりませんよ。例え相手が(?)でも矢でも、ね、こちらが本当の神心が出て来るとそれでも拝めれるようになるとですよ。
けれども今日、御理解80節の年寄りを大切にせよと言うてあるのはね、年寄りを大切にせよという意味のことではない、本当に教祖の神様がここで言おうとされてある事はね、中にいくらでも出てくるようにです、ね、お役に立つと言う事。お役に立ってきたと言う事。それだから若い者でもお役に立つ人は人から尊敬される敬われるという事をですね、だから、信心するものはよう心掛けておれとこう仰っておられる。そういう心がけを持っておけ。そこで実意丁寧神信心というそれがクローズアップされてくるわけである。実意丁寧神信心を色々に説かせて頂いてそれを結論するとです、ね、お互いが空しくなり合うということなんですから。ね。それが自分の子供のためだけではない、赤の他人の誰の為にでも自分を空しくしていく。犠牲にしていく生き方。そこにお道の信心の生命がある。次にはもうすぐに不都合不行き届きが重なり合うとこう言われておる。ね。不都合不行き届きが重なればもう、敬うてくれぬと仰る。そこに、私ともが実意を欠いてはならんなあと言う事が感じられます。ね。それこそ百年の恋もいっぺんにして冷めてしまうようなことがあるわけですよね。尊敬しとったけれども、あれを見たらもうがっかりしたというような事が。いかに実意丁寧神信心が裏もなからなければ表もない物が分かる。そこんところをですね、今日は皆さんにわかってもらうと同時に本気で実意丁寧神信心をさせてもらわなければ。今日はもういかにも年寄りを大事にすると言う事じゃないような風に聞こえたような向きもありましょうがね、やはりあの年寄りは大事にしなくていけません。
これは、まあ私のことですけれども、お役に立ってござるか立ってござらんか分からんと私は。ね。例えば敬親会の時なんかに(?)私がそのおばしゃんの手を握ってから、手ばこうこうやってからなでさすりするとですよね。
そのおばしゃんが役に立っておるかどうか分からんです。実際を言うたら。それけれどもこちらに神心が強い時にはですね、例えばしわだらけの手でもなでさすりしようごとある。ね。と言う事はそうしてでも大事にしようごとあると言う事なんです。だからそこんところは、ではないのですからね。今日はもう、若い者、年寄りなべての事。お役に立たなければ尊ばれない。ね。拝み遭うという事は、ね、不都合不行き届きの所を拝められるはずがない。それでは敬われないという事である。ね。本当の拝み合いの生活をさせて頂く為に私いよいよ自分を空しくしようという信心生活をね身につけていかなければいかんと思うです。
どうぞ